端午の節句とは 端午の節句とは

端午の節句とは

「端午の節句」とは、五月の「最初の午の日」の節供。
何故この節供だけ、上・中・下でなく、端という字であらわすのか理由が不明です。

江戸幕府制定の五節供の中では最重要視された節供になります。
理由は、俗名の「菖蒲の節供」の菖蒲が尚武(武をたっとぶ)に通ずるからだとか。このため、男子の節供とされるようになりましたが、本来は家中の厄を祓う為の物であることは言うまでもありません。転じて自家の子の健康を祈るものとなり、ついには男子の祭祀になったというわけです。
ちなみにこのあおりを食ったのが桃の節供で、三月三日が女子の祭祀日となったのは端午の節供が男子の物に決まってしまってから。それまでは男女の別はなかったようです。
現在では五月五日は「こどもの日」で男女の別はなくなっていますから、関係性は逆転していますね。

幟(のぼり)のはなし

幟旗は、その登場時には白地に二引きという非常にシンプルなものでした。家紋を持つ家は二引きの下に家紋を描いて終わりです。

現在でも神社幟(稲荷社は赤地に白抜きだったりしますが)などはこの形式ですね。旗竿頂部に吹流しをつけたものもあり、やがてこの吹流しが「変わり物」として鯉の形などになりました。後にこの部分だけが大型化し、独立した物が鯉のぼりだと言われています。

武者絵幟(むしゃえ のぼり)のはなし

町人文化が成熟するにつれ、芝居小屋の錦絵などの影響のもとに生まれたのが武者絵幟です。
講談や芝居などで取り上げられる武将を描いて、幟旗としたのです。

元来錦絵を意識したためもあるのでしょうが、色数が多く、染色に手間のかかる武者絵幟は当時からかなり高価だったようで、紙製の武者絵幟も多かったようです。これなら木版で大量生産が可能です。ただ、言うまでも無く雨には弱くなってしまいます。
s当時の文書には、にわか雨が降るたびに慌てて幟をしまう町人の姿を書いた文章や川柳などが残っています。中には錦絵同様に絵師が顔料によって幟に絵を書いたものがありました。今で言う「手描本染」です。

「幟旗」から「鯉のぼり」に。

先にも触れましたが、かつては吹流しの変形として旗竿の先につけられたものが大型化し、独立した外飾りとなったのが鯉のぼりです。
なぜ鯉なのか。それは、「登竜門(鯉の滝登り)」という故事にあやかった物と言われています。いわく、激しく流れ落ちる滝を鯉が盛んに遡ろうとし、それを成した鯉は竜に変じて天に昇る、というものです。

つまり、鯉は運気上昇の象徴とされ、大空を泳ぐ鯉のぼりを滝登りのさまになぞらえて、我が子が大成し、家門隆盛を招くことを祈願したというわけです。
ちなみに江戸時代の武家には鯉のぼりを飾る習慣はなく、元々は商家が福運招来のために揚げはじめた物だそうです。