桃の節供とは 桃の節供とは

桃の節句とは

蘭亭曲水図

蘭亭曲水図より

もともと中国では、三月最初の巳の日、曲行した流水のほとりで身を清めるという「上巳之禊事」(ジョウシノケイジ)の思想がありました。また、この際に辟邪(ヘキジャ、よこしまなものを避け、退けること)の陽花である桃の花を入れた酒を飲みました。また、酒を注いだ杯を流し、「河伯」(カハク。川の神のこと)に捧げるなどしたようです。
後に詩歌の流行に伴い、流された杯が自分の目の前に来るまでに詩を作るといった川遊びの要素が強くなりました。これを「流杯曲水」(リュウハイキョクスイ)と言います。
唐代などではこの為にわざわざ池を設けて「曲江」と名付け、「曲江の宴」(キョクコウノエン)を開いたといわれています。さらにはこの人工の池に船を浮かべてその上で宴会したとか。これを「流觴曲水」(リュウショウキョクスイ)と呼びます。
「上巳の」といいながら、魏(『三国志』の曹操の造った国です)の時代にはすでに三月三日と決まっていたようです。

ところが、陰陽思想と共にこの儀式を取り入れた日本では、なぜか言葉通り上巳に行われたようで、三日に固定されたのはそれから300年も後の事でした。理由は不明です。
そのため、「実は中世以前にはこの儀式は行われていなかったのではないか」という学説を唱える学者さんもいるようです。それって、後世に書き加えられたか、単純に嘘が書いてあった、ていう意味ですよね。どうなんでしょうね?

日本での「上巳の節」、「曲水の宴」

上記の「上巳之禊事」は、禊、祓い(ミソギ、ハライ)を重視する日本人の感覚にマッチしたようで、宮中では「上巳の祓い」(ジョウシ、またはジョウミノハライ)として定着し、また、詩歌の流行と共に「流杯曲水」も取り入れられました。

曲水の宴

日本では、中国の「曲江の宴」を取り入れた「曲水の宴(キョクスイノエン」、または「ゴクスイノエン)」、別名を「めぐりみずのとよのあかり」として行われていたようです。。庭園に「曲池」(キョクチ)と呼ばれる池を作るなど、さすがに日本では船を浮かべるまでには至らなかったようです。
三月三日節会の廃止の為、政(まつりごと)ではなくなりましたが、公式行事でなくなってからは、貴族の間でむしろ盛んになっています。藤原氏などは中国に倣って船を浮かべたりしています。ただ単に「天皇家でもやらなかった事」をしたかっただけかも知れませんが。この行事は、古代朝鮮(新羅など)でも盛んだったようです。曲池の遺構も発掘されていますし、宴の席上で暗殺された王(景哀王)の話も残っています。
現在でも神社などで観光行事として行われていますので、興味のある方は検索サイトで調べてみてはいかがでしょうか。

「お雛様」のルーツ~「天児」「這子」~

左:「天児」 右:「這子」

左:「天児」 右:「這子」這子の写真は裸の物ですが、実際に用いるときには産着を着せます。

日本では「撫物」(なでもの)と呼ばれる祓いの形代(かたしろ)に厄や穢れを移す習慣がありました。こうして災厄を背負わせた紙の形代を川や海へと流し、自分から遠ざけるのです。
特に子供は厄が寄り易く、また自分で祓う事が出来ない、ということで、後にあらかじめ身代わりになるものを作っておくようになります。「天児」(アマガツ)、「這子」(ホウコ、またはハイコ)と呼ばれるこれら身代わり人形は、子供の生まれたときに作られ、男女の別なくその枕元に飾られるのです。

現在でも、天皇家では天児を用いる習慣があるそうで、最近では大手雛問屋の「吉徳」がこれを納めた、というふうに先代吉徳の娘さんである小林すみ江さんが本の中で書いておられます。かつては主として殿上人の間で用いられたのが天児で、民間では這子が一般的だったといいます。
もっとも、宮中に限らず、江戸の中頃までには、男子の元服までのお守りとして天児を、女子のお守りとして這子を用いるようになっていたようです。この場合、這子は子宝祈願のお守りとして、嫁入り先まで持っていくものとされていました。
「天児」ですが、その見た目は室町期~江戸初期に主流であった、立ち雛(男雛)のスタイルに酷似しています。したがって、天児や這子が雛人形のルーツだという説は頷けるものがあります。
実際、江戸期には雛壇に天児や這子を並べたり、この二つを用いて親王飾りとしたという話もあるのです。

「雛」

立雛

立雛 江戸時代・19世紀(東京国立博物館HPより) 
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「鳥の雛の『ヒヒナ、ヒヒナ』と鳴きたるになぞらえて、小さきものを雛というなり」ですが、実際には大きさに関係なく、「何かをかたどったもの」を雛と呼んでいたのじゃないかと思います。江戸時代には人間より大きな雛人形があったと言いますので。
ちなみに今は「雛人形」といえば三月人形ですが、もともとの意味から行けば五月物だってケース人形だって「何かをかたどっている」ものには違いないんですが。雛とヒトガタ(人形)だって、範囲の違いはあっても同じ意味を持つ単語なんですから。

雛遊び

雛遊び

『雛あそび乃記』挿絵の「雛遊び」

平安の頃まで、女官などの間で流行った遊び。「ひいな(ひひな)あそび」、と読みますが、小さな調度類を用いたママゴト遊びに近いもののようです。紙製の「ヒトガタ」を用いた人形遊びも「雛遊び」と呼ばれました。
一般的には、人形遊びが先にあってそこに調度類が加えられたことになっているようです。(店のパンフにもそう書いています)

が、個人的な意見を言わせてもらえば、この二つはもともと別な遊びとして在ったのではないか、と思います。絵巻物などでは、「ヒトガタ」を使うとは限らないように見受けられます。もっぱら「人形遊び」を指すようになったのは大人の間で廃れ、子供の遊びになってからでしょう。

雛祭り

雛飾り

いまや桃の節供といえば雛祭りというのが常識ですが、上巳の節供を「雛祀る日」としたのは意外と近世になってのこと。
室町あたりから春に雛遊びをする習慣が出来てきたらしいのですが、三月三日にするものという風になったのは、寛永六年(1629)に、当時の後水尾帝が、娘の興子(あきこ)内親王の為に催したとされるものが始まりとか。
ちなみにこのとき雛飾りを献上したのが三代将軍家光の使者として上洛した、後の「春日局」だったそうです。(何で『後の』なのかといえば、このときの無位無官での宮中への参上が元でモメ事になり、結果としてその名前を賜ることになるからです。)

この前後にあった幕府との軋轢もあり、後水尾帝はこの年に退位してしまいます。そして、興子内親王が明正帝として6歳で即位するのです。興子内親王の母、東福門院和子は二代将軍秀忠の第八子で、つまり家光は天皇の伯父、ということになります。当時の幕府の政治姿勢がうかがえます。
雅やかな雛には似合わないエピソードですが、「三月三日の雛」の始めはこんな風だったのです。延寶(延宝)四年(1676)の資料によれば、この頃までには民間でもかなり広まっていたようです。

桃・桃の花・桃の実

桃の花

由来のところでも触れましたが、上巳の節供が桃を象徴としているのは、単純に季節の花だから、というだけではなく、この樹が陰気を払い、陽気を発するとされているからです。中国では陽木として最も珍重され、正月の飾りとして用いられているくらいです。実際、日本でも生け花では正月の花として使われています。
昔のキョンシー映画を見た方なら、道士がもつ木剣を覚えているかもしれません。あれも桃の樹を削って作られています。
日本神話でも、「イザナギ、イザナミ神話」のくだりで、ヨモツシコメから逃げるイザナギがその実を取って投げるなど、日本においても古くから邪を祓う物として定着していたようです。桃から生まれた子供が鬼を退治する「桃太郎」も、同じ思想から生まれたお話だと思います。
現在、季節の花としてはちょっと早いのですが、これは新暦のほうが約一ヶ月ほど先に三月になる為。長野県の一部などでは、「旧の雛」といって四月三日に雛祭りをする習慣がありますが、この頃なら桃の花の方もまずまずのあんばいでしょう。

「右近の橘」「左近の桜」

「右近の橘」「左近の桜」

お雛様を飾る際にはつきもののこの二つですが、大内裏の紫宸殿(シシンデン)の前にある「桜橘」をかたどった物。実際に雛壇に飾るときには見かけの左右が入れ替わりますが、これは「右近左近」の区別が上座からされているのが原因。里内裏(仮御所)でも植えておく決まりがあったとかで、天皇の御座所=公式の場(朝廷)ということなのでしょう。
また、今ある曲垣(マガキ、『籬』とも書く。木製の柵のような物。井垣とも言う)ですが、もともとは無かったとか。安政年間(1854~1860)に内裏の復原改築が行われた際に新しく設けられた、といいますから、意外と新しい様式ですね。

紅白梅

紅白梅図

紙本金地著色紅白梅図〈尾形光琳筆/二曲屏風〉
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最近、桜橘の代わりに雛壇に置かれる事も多くなった「紅白梅」ですが、御所の公的の場にあったのではなく、凝華舎(ギョウカシャ、あるいはギカシャ、通称『梅壷』。「源氏物語」にも後宮として名前が出てくる)にあったもの。現在の京都御所では「御常御殿」(オツネゴテン)と呼ばれる建物の前に植えられていますが、このことからもプライベートな性質が伺えます。お雛様に使うとき、段飾りより親王飾りに多いのはそのせいでしょう。
ちなみに、建物から見て、左に「白梅」右に「紅梅」となっています。この理由については、突っ込んでいくと多分かなりオカルトなものになるので、そういうサイトで調べたほうがよいかと思います。おそらくこのサイトの趣旨にそぐわなくなってしまうでしょうから(笑) 立川流とだけ書いときます。

菱餅

菱餅

菱餅は三段重ねと五段重ねの物が有りますが、一応正式な形は三段とされています。順番は下から緑、白、桃色で、それぞれ草、雪、花を表すとされます。五段の場合、この上に黄色、赤が重ねられ、それぞれ月、太陽を表すといいます。